その63

キルトログ、白魔道士になる準備をする

わたしは神様と話したことがない
天国を訪れたこともない――
でもちゃんとわかっている、その場所が
まるで点検をすませたみたいに――
――エミリ・ディッキンソン

 タルタルの腕力が我々に遠く及ばないように、ガルカも魔法の才能に乏しい。それがわかっていて白魔道士なんぞを志したのは、別に酔狂からではない。回復や治癒の業は冒険に大いに役立つ。それに前線で斧ばかり振っていずに、後衛の苦労も少しくらいは勉強するべきであろう。

 一般人は概して白魔道士と聖職者を混同しやすい。これは間違った認識である。たとえ神の力を発現しているように見えようと、白魔道士の業は純粋な物理法則にのっとった技術であり、本質的には黒魔道士と何のかわりもない。確かに暴力への志向が少なく、職業倫理の基盤に自己犠牲の精神を持つ白魔道士は、聖職者と共通する点も数多い。だが神を信じずとも白魔法は使える。なまじ「女神の祝福」などというジョブスキルがあるから、余計に勘違いされやすいのかもしれない。

 いい機会だから、ここで宗教について語ろう。ヴァナ・ディールでは、神と言うと暁の女神アルタナを指す。別に彼女ばかりが神様なのではないが、少なくとも人類が信仰するのは、アルタナをおいて他にない。

 アルタナの教えは世界宗教である。神話は以下のように語って、女神アルタナを人類共通の神である、と説明する。


 繁栄に驕り、神の住む楽園の扉を開けようとして、古代人たちは番人に罰せられ滅んだ。その姿に涙したアルタナの、5粒の涙滴から、それぞれヒューム、エルヴァーン、タルタル、ミスラ、ガルカが生まれた。

 それを傍らから見ていた男神プロマシアは、アルタナの所業をとがめ、獣人を作り出してヴァナ・ディールにばらまいた。人間を獣人との戦に専心させ、二度と楽園の扉を開こうなどというだいそれた考えを起こさせないために。


 私は文化としての宗教に興味はあるが、アルタナを特に信仰しているわけではない。というのは、女神・男神というイメージ自体、ガルカの外側から生まれた発想だからだ。バストゥークの礼拝堂には滅多に人が訪れないそうだが、その原因は決して薄情なヒュームのせいばかりではない。なぜ我々だけが転生と長寿を約束されたのか、神話の部分からはすっぽりと抜け落ちているので、私のようなガルカにとって、アルタナは信仰の対象から少し縁遠いものになっている(もし「語り部」が健在ならば、その穴を埋められるのかもしれないが)。

大聖堂 サンドリアにある大聖堂

 いまバストゥークの話をしたが、現在熱心にアルタナを信仰しているのは、ウィンダスとサンドリアである。ウィンダスにはご存じのように天の塔があり、預言者「星の神子」が住んでいる。一方サンドリアには荘厳な大聖堂があって聖職者が住まう。長い年月の間、互いに隔たった環境にあったせいだろう、両者はまったく別の宗教と言っていいくらい独自の進化を遂げている。お互いがお互いのアルタナ教をどう思っているのかはわからない。エルヴァーンは「星の神子」を女神の代弁者と認めないかもしれない。プライドの高い彼らのことだ、アルタナの涙から真っ先に生まれたのはエルヴァーンである、などと信じ込んでいてもぜんぜん不思議ではない。サンドリアに行ったら、両国の宗教の関係をぜひ確かめてみなくてはならない。

 アルタナ教が現在のように宗教として定着した理由は、むろん優れた教義にあるが、獣人という一大勢力の存在も忘れてはならない。同じ同胞(はらから)でありながら、人類は決して仲良く手を取り合って生きてきたわけではない――しばしば血族同士が争いを繰り返すようにだ。人間は共通の敵の前で強く結束する。思えば20年前の大戦において、ジュノのなかだちで人類五種の結束が一枚岩となったとき、
『アルタナ連合軍』という名を共に掲げたことは象徴的だった。たとえ信仰を強く持たなくとも、同じアルタナの子である、という認識が我々の中に生きている。だからこそミスラもガルカも「人間」と認められるのだ。たとえ他の種族より獣に近い容姿を持っていたとしても。

 ただその宗教的背景のおかげで、獣人は人類の仇敵である、という固定観念からは抜け出せなくなっている。奴らがプロマシアを信仰しているのかどうか、誰も頓着しない(獣人同士で争ったりはしないようだ)。ウィンダスの神託が示唆するのは、獣人とさえ手を取り合えるかもしれない、という真の平和への可能性だ。おそらく人類の中で、タルタルが最も強く――少なからず臆病さが原因だとしても――平和を望んでいる。だから「星の神子」の預言が、彼らの深層心理を代弁したとしても別に不思議ではない。おそらくサンドリアにいれば正反対の回答が出るだろう。「神」とは概してそういうものだ。事実に主観を付加して真実とするように、人々は客観的な事象からも自分の望む答を読み取る。だが結局それは自分の希望の合わせ鏡に過ぎないのだ。

 私はガルカであって、おまけに冒険者だ。現実家であることには人後に落ちない。敵は敵、味方は味方、降りかかる火の粉は払う。それは真の正義ではないかもしれないが、私は迷わないし、迷ってはいけないものだと思う。自分や大切な誰かを犠牲にしたくないならば。


 ウィンダスへ戻る途中、船の中であるガルカ氏に会った。甲板に出ようと間違って納屋の扉を開けたら、そこに彼が座っていた。レザーベストを着ているので強さがすぐにわかった。何といってもSolに会ったとき私も同じ鎧を身に付けていたのだ。

 行き先を聞いたらウィンダスだと言う。冒険者として暮らしやすい、鍛錬もしやすいと聞いて拠点を移すのだそうだ。バストゥークへ遠征した自分を思い出した。いま彼は私と逆の道を進もうとしている。私はSolのような古強者(ふるつわもの)ではないけれども、放っておけなかった。一人でブブリム半島を歩かせるのは罪だと思った。だから同行を申し出て我が故国へ送ることになった。

 彼を無事に連邦へ連れて来てから、手を振って別れた。白魔道士になる準備をする。私がいつか魔法の巻物を買うなどとは想像もつかなかったことだ。桟橋の上で、あれでもないこれでもないと言いながら防具を選んだ。武器はよくわからなかったので杖を買い、
片手杖両手杖、両方を用意した。斧に比べると頼りない軽さだったが、いよいよ魔法使いになるのだという実感が強くした。

 競売所の前で郵送の手続きをしてから、森の区の門を出た。まだ戦士である。またしばらく戻ってこないのだ、と思うとやはり寂しかった。どんな未知の世界が待っていようと、この感覚は終生変わらないと思う。それだけ私はウィンダスを強く愛しているのだ。

 驚くべき偶然だが、タロンギでSolに会った。久しぶり、と元気よく声をかけてもらって私は嬉しかった。初心に返った気がした。これからサンドリアに行くのです、と事情を話して、互いの無事を祈りながら離れた。今度は誰とも一緒ではなかった。私は一人で船に乗って、イサシオに残り二つの品を手渡した。老人は私にもう教えることはないと言って力強く私のことを送り出した。

 これから私はサンドリアに入る。ガルカ氏を送り届け、Solに出会ったことは、素晴らしい前兆だと思った。何故だろう、運命的な力を感じるのだ。バストゥークへ行ったときも少なからずそうだった――あのとき私は天の時を信じた。そして今の私がいる。
 神が見ているのだろうか、とふと考える。私らしくもない発想だ、と思った。私は不信心ものだ。ただ自分自身の正義感に背いたことはない。私は人事を尽くすたちで、それで駄目なら仕方ないと考える。そこから先は個人の領域ではない。何につけ懸命にやってみせて、夢破れたあと、私が救うに足ると神が信じるなら、私を救うだろう。そうでないと思うなら、私は救われないだろう。従って私が祈るのは、祈るしかなくなった場合に限られるのだが、少なくともそう思う機会はこれまでなかった。これでも私は神を信じていることになるのだろうか。

 砂丘を走る間、神と運命について考える。ゴブリンは襲って来なかった。答が見つからないうちに、高原の入り口がやって来た。ままよ、私が運命だと思い、私がその責任を取るなら、誰にも迷惑はかからない。神の手を煩わせることもない。厳粛な回答ではないが、何だか勇気づいた。私は力強く新天地への第一歩を踏み出した。

 ラテーヌには、満天の星が輝いていた。


 ディッキンソンはアメリカの詩人(1830−1886)。

(02.09.26)
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