その373 キルトログ、満月の泉に下りる 口の院院長を探すため、森の区の門から出ようとすると、警備詰所のラコ・ブーマと目があった。こちらに手招きをするので、無視するわけにもいかず、彼女に近づいて話を聞いた。 「アジド・マルジドに関してなんだが……」 ラコ・ブーマは、私の耳に顔を寄せた。 「セミ・ラフィーナが根掘り歯掘りきいていった。お前も注意した方がいい」 「ア、アジド・マルジド院長ですって」 石柱にもたれかかっていたタルタルのガードが、はっと身を起こした。船をこいでいたと思っていたが、違うらしい。それとも馴染みの名前を聞いて、とっさに目を覚ましたか。さて、さっきの忠告を聞かれてしまっただろうか。 「こ、小耳に挟んだのですが……トスカ・ポリカさまが」 彼は、目の院院長の名前を出した。 「アジド・マルジドさまを、盗っ人とお呼びになっていたそうなんですが……そのようなこと……ほ、本当なのでしょうか?」 タルタルは、私たちの顔を見回した。だが、湿った視線が向けられているのに気づき、ただでさえ落ち着きのないところが、余計に挙動不審になった。槍を持つ手に力が入り、手の甲が白くなっていた。足は小さく震えていた。 「ミリ・ウォーリ?」 ラコ・ブーマが優しく声をかけた。文字通りの猫なで声で。 「……はい」 「いいから、向こうでやすんでおいで」 「……わ、わかりました」 純朴そうなタルタルが、遠くへ行ってしまうと、彼女は私の肩を叩き、「じゃ、そういうことだから」と言って、話を切り上げようとした。 私は疑問を口にした。 「どうして、そんなことを教えてくれる?」 「そりゃ、気の毒だからさ。あんたが何も知らずに、あの2人の権力争いに巻き込まれたんじゃね」 「あなたはミスラだから、セミ・ラフィーナ派と思っていたが……」 「あたしが! 冗談!」 ラコ・ブーマは、尻尾をぶんぶんと振り回した。 「何であたしが、あの女の肩を持たなきゃならないのさ。言っとくけど、彼女をきらいな娘はいっぱいいるよ」 そうなのか、と私は言った。 「そうさ。タルタルと付き合ってるのと、どちらがましか、わかんないよ。ミリ・ウォーリともなかなか話が合わないしね。もっとも、あの子はいい子だけどさ」 「ウィンダスも大変なんだな」 正直なところを口にすると、ラコ・ブーマは、奇異なものでも前にしたように私を見つめた。 「あんたまさか、連邦がうまくいってるなんて思ってたのかい……?」 トライマライ水路には、肝試しのときに来たことがある。ここは一筋縄では行かない。通路の中央にある水路は一段低くなっていて、浅瀬だから歩いて辿ることが出来る。地図では一本の道でも、上段の壁沿いの道と下の水路、壁は2枚あるから、あわせて三つの道がある。地図のような俯瞰図では、通路の違いがわからない。間違った道を行くと格子に突き当たり、引き返しを余儀なくされる。とてもじゃないが、地図を見て適当に抜けられる迷宮ではない。 幸いにして、Librossが道を知っていたので、先導してもらった。最奥の扉――禁断の満月の泉へ下りるところまで、連れて行ってもらう。 とはいえ院長のところに、私以外の誰かが顔を出すのはまずい。これは皆には言わなかったが、院長に協力したかどで、政治犯として逮捕される可能性があった。そういう危険を、私以外の誰かに負わせるわけにはいかなかった。だから私は、みんなが興味津々であることを承知の上で、水路に残っていてもらうよう頼み、私ひとりで泉の中へ踏み込んでいった。 階段を下りた先に広がっていたのは……。 私が到着したのは、何の変哲もない地下水の川岸だった。パルブロ鉱山の地下にも似ている。さすがに水は澄んでいたが、川幅が広くて渡ることが出来なかった。対岸の土壁に、とっくりを逆さまにしたようなオブジェクトが見える。何かの祭壇なのかもしれない。 アジド・マルジドがいないな、と思って周囲を見回したとき、小柄な院長が、私の後ろから入ってきた。口をあんぐり開けて、声をあげている。 「あ あ あ あ!」 洞窟内にこだまが広がった。演技ではなく、心底驚いているふうであった。 「泉が、光を失っている……」 院長はがっくりと両膝をついた。 「畜生! ヤグード王の言ったことは、こういうことだったんだ! ここにある星月の光がなくなって……」 彼はぴたぴたと、拳で地面を打ち始めた。私は慰めの言葉さえかけられず、対岸の祭壇らしき何かを、じっと見つめている。 当然のことながら、満月の泉について、私は無知である。日ごろどのような光を宿しているのか、何も知らない。だが率直な意見として、為政者が啓示を受ける場所にしては、あまりにも殺風景すぎると思う。逆に、以前はここに光が満ちていたのだとしたら、すばらしく幻想的な眺めだっただろう。 「……待てよ」 思いつくことがあったのか、彼は顔をあげた。 「それでは、大いなる獣は? ……23年前の戦いのとき、カラハ・バルハが召喚した、大いなるけも……」 アジド・マルジドは、突然に私を突き飛ばした。小さな身体とはいえ、不意をつかれたため、私は砂の上に尻もちをついた。私の右手は、腰の斧に伸びていた。てっきり院長が錯乱したかと思ったのである。 「馬鹿め! かくれろ!」 彼は、岩陰に私を押しやった。 「お前には、あれが聞こえないのか?」 私は耳をすませた。洞窟内を通り抜けていく、かすかなぬるい風の中に、長靴(ちょうか)で踏む規則正しい靴音を、聞いたように思った。それは徐々に大きくなってくる。しかも複数のようだ。ふたり……三人……どころではない。少なくとも5人以上、おそらくは10人近くの小隊であろう。 「セミ・ラフィーナと守護戦士どもだ」 院長は、声を押し殺して言った。 「もう見つかるとは思わなかった。あのミスラめ、ずいぶん手際がいい。どうやら今回は本気で、俺を捕まえようとしている……」 私は、それを忠告に来たのだった。逃げませんか、と院長に言った。彼は悲しそうにかぶりを振った。 「お前は、ここに来るべきではなかった。スイッチを入れるまでが、お前の仕事だったのだ。満月の泉に下りたことがばれたら、ただでは済むまい。従犯として裁かれることはまぬがれないだろう。 だが、奴らに見つからなければ、望みはある。セミ・ラフィーナは俺を憎んでいる。その憎悪がある限り、そうそうお前に矛先が向くことはないと思う。さあ準備をしろ、俺が魔法で外へ出してやる」 院長も一緒に出ましょう、と私は言った。彼は大口を開けて私を一喝した。 「馬鹿! 俺と一緒にいては、お前も牢の中だぞ!」 「アジド・マルジド!」 洞窟に響き渡る女の声。 「神子さまからおん許可を戴いたわ。天の塔の禁に背き、魔法塔を動かしたのみならず、たびたびの警告を無視し、聖なる満月の泉に無断で下りたる罪……許すことは出来ぬ。闇牢に繋ぐに値する罪状である。いざ覚悟せよ!」 院長が、うわっと言った。靴音が近づきつつあった。得物を抜いた人影が、彼にのしかかってきた。そのとき、「飛べ!」という小さな掛け声とともに、私は魔法に包まれ――空間を一息に越えて、泉の外へと脱出していた。 口の院院長が捕らえられた、というニュースは、瞬く間に連邦に伝わった。意外にも、市井の反応は冷淡なものだった。彼の“悪行”を耳にしていたからかもしれない。少なくともアジド・マルジドは、連邦への忠誠心よりも、あふれ出る野心においてその名を知られていた。 悲しんでいた者がいるとすれば、彼の妹のアプルルだろう。彼女がどれほど悲嘆にくれていようか、と考えると、手の院には近寄りづらくなった。彼女の兄の逮捕に、私が関わっていたとすればなおさらである。 奇妙なことに、守護戦士からの咎めはまだない。セミ・ラフィーナのような切れ者が、ミッションで誰が呼び出されたかを、突き止められないわけがない。たとえラコ・ブーマが、彼女に非協力的であったとしても、である。これは奇妙なことだ。私はしばらくおとなしくしていた。泳がされているのかもしれない、という疑念はあった。だがとうとう、罪の意識にさいなまれ、せめて謝罪だけでもと、口の院の門を潜った。一週間後のことである。 以前は陽気そうだったハックル・リンクルは、げっそりと痩せてしまっていた。下瞼が腫れている。終日泣き暮らしているのである。クロイド・モイドは幾分か落ち着いていたが、これは彼が冷淡であるというより、院長がいなくなった以上、自分が院を支えなければ、と決意していたせいだろう。それでも動揺は隠せないものである。彼らにとって、アジド・マルジド院長は、それほど大きい存在だったのだ。 「院長は、闇牢につながれてしまいました……」 クロイド・モイドは言った。 「闇牢とは、日の光も届かぬ永久牢獄……ここに閉じ込められる者は、魔力を奪われ、全く無力な状態で、無限の時を過ごすのです。よし命があったとしても、それはまさしく生けるしかばね……」 ハックル・リンクルが、またよよと泣き出した。クロイド・モイドは、それをちらりと横目で見て、 「院長代理は決まっていませんが、シャントット博士になるのでしょうね」 と、実際的なことを言った。 「私たちは、院のことを考えないといけません。ヤグード族との“友好”関係も、もはや限界に来ています。もはやいつまた、ヤグード戦役が起こってもおかしくない……(注1)。その状況で、口の院がこんなでは、連邦の士気に大きな影響を及ぼします。残された我々が、しっかりしなくてはいけないのです」 そのとき、魔法を練習していたタルタルのひとりが、クロイド・モイドを振り返って大声を挙げた。 「院長を奪還しましょう!」 どうやら女の子のようである。 「こんなときのために、高位魔法を習得したのです、副院長! やっと実戦で使うことが出来ます!」 「馬鹿を言うな!」とクロイド・モイドが一喝した。幸いに彼女は、それ以上何も述べることなく、おとなしくカーディアン相手の練習に戻った。「あれです」と彼は言った。「血の気の多いのがいます。こんな時期ですからね。冗談にも、守護戦士に聞かれるわけにはいかない」 それはともかく、これからどうするつもりか、と私は尋ねてみた。 「どうなるでしょうね」 クロイド・モイドは、力なく笑った。 「すべては、院長代理のやり方しだいですね。なに、口の院は危機的状況に見えますが、以前にもっとひどい混乱があったらしい。シャントット博士が院長に就任したとき……ね。また聞きですけど。だから今は、2番目に最悪といったところですかね。は、は、は」 私は何も言わずに口の院を出た。 アジド・マルジドは囚人になってしまった。野心家で、向かうところ敵なし、という自信に満ちた、あの男が! 今では彼は、格子の向こうで、暗く冷たい時間を過ごしている。昼もなく、夜もなく。 目にあついものを感じて、私は空をふり仰いだ。はらはらと涙がこぼれた。なんということだ。最初に会ったときから、私はアジド・マルジドが嫌いだったはずだ。なのにいつの間にか、気持ちが変化していたらしい。彼の迷いのない探究心と、断固とした行動原理に触れることによって、私はすっかり――彼に好意をもつようになっていたのだ。 なんということだ。 注1 「有史以来ウィンダスは、ヤグード族と7度に渡って大規模な交戦を行った。これらはヤグード戦役と呼ばれる。クリスタル戦争を入れると8度であるが、戦後連邦は奴らと同盟を結び、少なくとも見かけ上の友好関係を保ってきた。それがいかに欺瞞に満ちたものであるかは、ヤグードによる旅人の襲撃が、一向に減らないことからも明らかである」 (Kiltrog談) (05.06.26) |
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