その447 キルトログ、ジョーカーの行方を見守る 果たして遠浅の苔とはいかなるものか。調べるのは意外に簡単だった。クフタルの洞門に棲むクモの身体に、ときどき生えていることがあるという。だとしたら話は早い。現地に行って、望む量が採れるまでひたすらクモをぶちのめすだけだ。 友達の力を借りてハンティングをしてきた。2日かかった。こうして苦労して苔を取ってきたのだが、なぜそのときに、プリズムパウダーのことを思い出さなかったのか理解に苦しむ。姿を消すアイテムならば、競売所で簡単に手に入るわけだ。不覚というほかはない。 幸いにも、苔そのものは無駄にはならなかった。『ララブのしっぽ』亭に持参すると、おかみさんは「ちょっとお待ちよ」と言って、台所の奥へ引っ込んだ。程なく、何とも形容するのが難しい、あやしい呪文のつぶやきが、のれんの向こうからぼそぼそと響いてきて、その後に「どん」とか「ぼん」とか、派手な爆発の音が続いた。しんと沈黙が訪れたので、まずいなと私は思ったのだが、しばらくすると、おかみさんが元のにこにこ顔で出てきたので、ひとまずほっとした。「できたよ」と透明人間シールが差し出される。もっとも傍目には、貧相な湿布みたいにしか見えなかったのだが。 「材料が高価なんで、緊張したよ。せっかくの苔を無駄にしたら、しっぽ漬け山盛りでも許しちゃくれないだろうからねえ!」 私はチャママに厚く礼を述べた。ちなみに私の妻は、しっぽ漬けの方がありがたいと勝手なことを言っていた。本人に反省を促す意味でここに付け加えておく。
翌朝、私は透明人間シールを持って、倉庫裏へ出向いた。つけひげならともかく、これにどれほどの効果があるのかは、使ってみないとわからない。だがコーラロ・コロは「すげえなあ!」と感心しきりである。壇の下でピチチちゃんも「うちのお母さん、何でも出来るんだよ!」と誇らしげだ。 団長はシールを広げて私に言った。 「じゃあ、さっそくジョーカーのところへ届」 彼の声が凍った。 足音はしなかった。気配もしなかった。言い訳ではない。何かが近づいてきたという兆候を示したのは、みるみるうちに血の気が引いてしまった、団長の顔色だけだった。私はかつて、誰かの顔があれほど唐突な恐怖で凍りつくのを見たことがない。 私は斧を手に取り、振り返った。ずんぐりしたふたつの、カカシの影があった。一体のカーディアンは、小脇に少女を抱えていた。タルタルの女の子が、きーきーとねずみみたいな悲鳴をあげながら、必死でバタバタと抵抗している! それが引き金になった。一同バインドが解けたように、わーとかうわあとか叫びだして、それはもう散々な騒ぎとなった。 「子供たちよ。我らが王の命を返してもらおう」 カーディアンが淡々と言った。喋りが淀みない。ということはこいつは、手の院の警備兵ではあり得ない。 「エエエエースカーディアン!」 パポ・ホッポが、屠殺寸前の羊みたいな裏声を挙げて、くるくると目を回し、たちまち失神してしまった。 「あれはお前たちには必要のないもの。我々に返すのだ」 「あ……あれって?」 「返さないときは、この子の命はないものと思え」 カーディアンに服をつかまれ、吊るし上げられて、ムチャクチャにもがいていた少女が、ついにビービーと泣き始めた。「ちくしょう!」とコーラロ・コロが震えながら叫んだ。「何だか知らないが、ボクは悪いやつなんかこ怖くないぞ! シャンルルを放せ!」 「怖くないぞ!」と続いて唱和したのは、ピチチちゃんのみであった。スターオニオンズの面々は、ある者は失神し、ある者は腰を抜かし、ある者はその場にしゃがみ込み、真っ青になるか、あるいはがたがた震えていた。ここは袋小路で、唯一の逃走方向には敵が立ちはだかっている。二体を相手にするのはきつい。だが、子供たちが逃げる時間を稼ぐことくらいは、この私にも出来そうだ。敵が二体しかいないのなら。 そう思って戦う覚悟を決めたときである。倉庫の角を曲がって、もうひとつの影が近づいてきた……。三体目のカーディアンが……。 このカカシも、二体に負けず劣らず流暢に喋った。 「やめるのだ」 「ジョーカー!」とコーラロ・コロが叫んだ。同時にエース・カーディアンが「王よ」「王よ」と唱和し、静かに頭をたれた。 「彼らは私を蘇らせてくれたのだ。その子を解放せよ」 カーディアンがシャンルルを取り落とした。彼女は両手で這いながら木箱の陰に逃げたが、もはやカカシどもは一瞥もくれようとはしなかった。 「永い間、王のお帰りをお待ちしておりました」 頷くジョーカー。 「エースたちよ、私は戻った。私にはやらねばならぬことがある」 「仰せのままに」 「では行くとしよう。ここは我々のいる場所ではない」 ジョーカーを先頭に立てて、カーディアンは移動を始めた。「ジョーカー!!」とコーラロ・コロが声を挙げる。 「どこへ行くんだよ! お前はボクらの仲間なんだ! 悪いカーディアンについて行っちゃあダメだ!」 「仲間……」 ジョーカーが振り返った。 「そうだよう。お前はスターオニオンズだ」 団長は静かに言った。「ボクらの、友達だ」 ジョーカーはしばらく黙っていた。私の予想が買いかぶりでなければ、彼の胸中に帰来するものがあったはずだ。ジョーカーがまだ、おのれの使命も見出さず、片言しか話せなかったときから、スターオニオンズは彼を愛した。そこには、使役する者とされる者という、即物的な関係ではなく、純粋な友情だけがあった。そうでなければ、ジョーカーを壊さなければならぬと知ったときの、コーラロ・コロたちの涙を説明できまい。ジョーカーもそれをよくわかっているはずである。 スターオニオンズにとっては、彼はカカシではないのだ。 「ありがとう。だが、行かせてほしい。私にはやらなければならぬことがある」 ジョーカーは静かに言った。コーラロ・コロが悲痛な叫び声を挙げた。ジョーカーは黙ってそれを聴いていたが、やがてずんぐりした右手を挙げ、宣誓するように自分の心臓――魔導球が埋まっているはずの場所に当てた。 「その代わり、約束しよう。私はスターオニオンズだ。君たちの仲間であり、友達だ。私はいつか、必ず君たちのところへ戻ってくる。スターオニオンズの鉄則に加えるのだ。「約束は絶対に破らない」と」 「ヤクソクだぞ!」 涙声のまま、コーラロ・コロはちぎれんばかりに手を振った。 「今ヤクソクしたぞ! ジョーカー! 絶対に帰ってくるんだぞ! ボクたちのところへ!」 「そうだ。カーディアンは決して嘘をつかない」 それは人間のように優しい、やわらかい口調だった。 「そして、スターオニオンズは、決して約束を破らない……」 カーディアンは行ってしまった。私は斧の柄から手を放し、もう大丈夫だというしるしに、大きくぱんと手のひらを打ち合わせた。 空気が弛緩したが、声はあがらなかった。一同はずびずびと泣いている。子供たちであるから致し方のないことだろう。頭では理解しても、体が恐怖から解けていないのだ。 「こわかったよお! こわかったよおお!」 私の足元にはいはいをしてきた子がいた。伽班(きゃはん)の裾を引っ張ったのは、見張りの少女シャンルルである。彼女の目も頬も真っ赤になり、鼻水も垂れて、人形のような愛らしい顔が台無しだった。ミスラっ子のひとりが「よしよし頑張ったね!」と言いながら、シャンルルを抱き上げた。そういう彼女もまだ、小さく両足を震えさせているのである。 「シャンルルはずいぶん頑張ったんだからさ! もう私たちの仲間に入れてあげようよ。ねえ?」 最後の声は壇上に向けられた。返事はなかった。 「団長?」 コーラロ・コロは石のようにかたまり、ジョーカーの去った方をじっと見つめていた。ぶつぶつとつぶやく声が私の耳に届いた。彼は呪文のように、同じ言葉をずっと繰り返しているのだった。 「ジョーカー……絶対に帰って来るんだぞ……ヤクソクしたぞ……絶対……」 (06.05.28)
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