その483

キルトログ、落涙する

 アジド・マルジドの嗚咽は続いているが、我々の視線は、神子さまに戻っていた。この場を支配しているのが彼女であることは明白だったからである。

 戦闘で心身をすり減らした我々。力を使い切った様子のセミ・ラフィーナとアプルル。博士たちの秘密兵器の照射をくらいながら、奇跡的に生き残っているカーディアンども。それらの一切が、存在の主張をやめ、息を殺し、星の神子さまの言葉に耳を傾け、一挙手一投足を見守っているのだった。衆人の注目を浴びながら、神子さまは緊張している様子も、臆した様子もない。神子さまはジョーカーのもとへ、ゆっくりゆっくりと歩んでいかれた。

 神子さまはジョーカーの前に立ち、彼の前で静かに跪かれた。そんな様子にすら気品を感じさせる。ジョーカーも堂々としたものである。彼は語りもせぬし動きもせぬ。この場にいて、神子さまを受け止められる器を持つのは、唯一彼だけであろう。

「決心がついたか」
 ジョーカーの問いに、神子さまは頭を下げられたまま、お答えになられた。
「はい。すべては、導きの星が教えてくれました」
「彼が、何と」
「ウィンダスを救えるのは、ただ私だけである、と。それは、フェンリルさまの御心に添ったものです。24年前、フェンリルさまは私にこう仰いました。『導きの光なき闇夜が来るが、決して歩みを止めてはならぬ。歩みを照らす光はないが、光なくとも道はあるのだ』と」
 
「だが、光はあったわけだ。彼はウィンダスに来た」
「星月の導きに感謝します」
「そして、そなたが闇を照らそうとしている。もしかしたら、そなたは死ぬやもしれぬ。その覚悟は出来ているか」
「はい」

 アジド・マルジドが、はっと面を上げたが、神子さまに気圧されたか、何も言わなかった。
 神子さまがこちらを振り向かれた。
 そのお顔は、実に晴れ晴れとしていた――何かを決意した女の表情だった。思えば、彼女はいつも沈んでいた。私が謁見する以前から、おそらく24年間、ずっとそうだったのだろう。だが今は違う。心に一点の曇りもない様子が、遠くから拝見してさえ、わかる。神子さまはにこやかに微笑んでさえおられた。私は目を閉じた。瞼に熱いものが滲んだ。もう大丈夫だ――神子さまは、そして、ウィンダス連邦は。

「ここにいる、皆が証人です。よく、お聞きなさい」
 神子さまの声はよく通った。皆、しんと静まり返り、そのお言葉を聞いている。身動きしようとする者すら一人もおらぬ。
「始まりの星の神子さま、リミララさまは、ウィンダスの滅亡を予言しました。星読みの儀式を通じ、私はその事実を知りました。私は怖かった。死を、震えながら待っているより、他に何も出来ませんでした。私の24年間は、さながら、運命の大海を、小船に乗って揺らいでいるようなものだったのです。
 そんな私に、櫂を差し出してくれたのが、カラハ・バルハでした。だが、私は自分で船を漕ぐことを知らなかった。そのために、彼は死にました。そして今、アジド・マルジドまでを、私は失いかけようとしていた。
 こんなことは、もう終わらせなくてはいけません。
 私が、終わらせるのです」

「カラハ・バルハ」と、神子さまは、初めて黒い使者の方を振り向かれた。禿頭、ぎらついた両目、ぼろぼろの黒いローブ。彼の姿は惨めで、悲しみを誘うものだった。満月の泉の光に照らされても、死人の肌のくすみは消えなかった。その口で何か喋ろうとしたが、言葉は出てこなかった。呪文を唱える他は、満足に話すことすら出来ないのだ。残酷な光景だ、と私は思ったが、黒い使者を見つめる神子さまの両目は、感謝と慈愛に満ちていた。

 神子さまは、黒い使者――カラハ・バルハの右手を取り、両の手でお包みになられた。
「あなたには……何もかも、わかっていたんですね」
 神子さまのお声は震えていた。
「フェンリルさまがお亡くなりになれば、ウィンダスの滅亡は回避される……でも、連邦は同時に、星月の加護を失う。あなたは、ウィンダスに本当の救いをもたらすために、ジョーカーを作った。ジョーカーをエース・カーディアンたちの王に据え、彼らが王を復活させるようにした。しかし、ジョーカーは港の子供たちの手によって蘇ってしまった。本当なら、ジョーカーのカードが使われ、もっと早くフェンリルさまのお心が宿るはずだったのに、時間がかかってしまったのです。
 そしてあなたは、わずかな星月の力により、その姿を与えられ……黒い使者として、ヴァナ・ディールに……ウィンダスに戻ってきた。
 あなたには……」
 神子さまの言葉が途切れた。涙声になりそうなのを、必死でこらえておられるのがわかった。

「私が弱いせいで、あなたには、申し訳ないことをしてしまいました。何度ゆるしを乞うても、済むものではありません。あなたは……あなたは……やすらかに眠ることさえ許されずに。私のせいで、私が。私が」

 カラハ・バルハが左手を、そっと神子さまの御手の上に重ねた。
 神子さまがお顔を伏せた。
「どうか、これだけは言わせて。カラハ・バルハ。あなたがいてくれて……私は、幸せでした。あなたは、私に本当の……実り多い人生をくれました。あなたと会わせてくれた、星の導きに私は感謝します。ありがとう、本当にありがとう。カラハ・バルハ」
 
 カラハ・バルハが、ローブの下で微笑んだように思えた。それは、私の気のせいだったろうか。
「フェンリルさま」
 涙をふり切るように、神子さまは聖獣の名を呼んだ。
 ジョーカーが厳かに言った。
「我が一つになれば、もう彼と意志を通わせることは叶わぬ。それでも良いのか」
「お願いします」
 神子さまは、まっすぐカラハ・バルハを見つめたまま答えた。一瞬も迷った様子はなかった。
「彼を、これ以上苦しませたくはありません」

「よかろう」

 カラハ・バルハは、名残惜しそうに神子さまの御手を離した。カーディアンが杖を放り出し、車輪を転がして進み出て来るのを、彼はおとなしく見ていた。ジョーカーの丸っこい腕が、両肩にかかっても、抗わなかった。そこには、彼が現世に対し、どのような未練を持っていたとしても、もはや、思い残すことなど何もないというふうな、清々しい諦めがあるように見えた。

「カラハ・バルハよ、そなたは偉大だった。安らかに眠れ……そして、我と共に生きよ」

 ジョーカーの身体から、光が放たれた。

 ジョーカーと黒い使者の身体から、青白い霊気が、糸筋のように立ち上った。やがてそれはだんだんと太くなり、ひとつの塊となって、渦を巻いていった。古代魔法と違うのは、左右に揺らめくさまが巨大な炎を連想させながらも、自ら意志を持っているかのごとく動いている点だった。獣の遠吠えが聞こえた。犬、いや、狼かもしれぬ。紫色の光を弾かせながら、フェンリルは咆哮した。その衝撃に、満月の泉はびりびりと震えたのだったが、同時に黒い使者の身体が、砂のように崩れ始めた。彼は地に倒れた。噴煙が上がった。ジョーカーも同様である。塵の山の上に、カーディアンの身体がごろんと倒れ込んだ。彼はもはや、単なるカカシに過ぎなかった。

 先刻の竜にも匹敵するほどの、巨大な狼が、泉の上に浮いていた。たてがみの何と猛々しいことだろう。毛並みは美しく、青白い燐光に包まれていた。彼はもう一度、吼えた。それは、まるで彼が、誰かを弔っているかのように長く、長く尾を引いた。

「古い星月の意志は、すでに死んだ……」
 満月の泉に復活したフェンリルを背に、神子さまは高らかに言った。
「そして、新たな意志が生まれます。星の神子として、私が執り行います……月詠みの儀式を」


(07.02.21)
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