バストゥーク史(5)――冒険王の軌跡

■ポイント■
・鎖死病の大流行と、錬金術ギルド
・グィンハム・アイアンハートの生涯と業績
・エニッド・アイアンハートの生涯と業績

◆戦後の明暗

 第一次ミスリルラッシュから、右肩あがりに国力を増大させてきたバストゥークだが、大戦でサンドリアを打ちのめしたことで、いよいよ勢いは頂点に達し、同国最盛期を迎えようとしていた。

 軍務省は692年に再び1個軍団を増設、これによって現在の4個軍団制(陸軍3、海軍1)が確立される。第二次コンシュタット会戦直後、共和国軍はルジーグを追撃し、サンドリアに侵攻したのだが、神殿騎士と在郷騎士の働きによって、すんでのところで撃退されてしまっていた。ルジーグは再戦をもくろみ、2年後には王立騎士団を再編成する。だが彼がラテーヌへ出撃したさい、果てしのない戦いを臨まぬ弟のフェレナン公が、王都を占領してしまったのである(フェレナン公爵の乱、693年)。ルジーグはフェレナンを捕え、幽閉することに成功するのだが、脱獄されて西ロンフォールへ逃げられ、西サンドリアを建国されてしまった。これよりサンドリアは内戦に入り、二王朝時代が100年以上も続くのである。

 ライバルのこのような衰退にともない、共和国政府は大規模な王都侵攻計画まで練りあげていたが、結局実現せずに終わる。バストゥークの場合、外敵に足をすくわれたわけではなかった。それはあるとき、足音もなく襲来し、共和国国民を恐怖のどん底に陥れた。我々はその災厄のことを、鎖死病という名前で知っている。

◆鎖死病大流行

 705年のある日、商業区黄金通りにある宿屋にて、異国の旅人が突然死した。食堂で石のスープを食しているうち、唐突に顔をうつぶして亡くなったのである。死因は不明。なぜか、全身に鎖状のアザがあった。宿屋の人たちはいぶかしんだが、ともかくそのまま死体を埋葬した。その時は単なる変死で終わると思われた。
 
 その1週間後、宿屋の従業員が全員、同じ症状でばたばたと死んだ。これがきっかけだった。全身に鎖状の文様が出来る伝染病が、またたく間に国内に広がった。鎖死病の本格流行が始まったのである。

 死者は日に日に増えていった。政府は急いで対策を講じなければならなかった。首府には殆どいなかった白魔道士が招聘された。修道士に薬草を配合させ、祝福させた水、いわゆる聖水を配らせた。だが、全くといっていいほど効かなかった。あまり何日も何日も人が死ぬので、棺桶の供給が追いつかなかったという。数少ないガルカの葬儀屋は大忙しであった。

 やがて人々は、死んでも省みられなくなった。死体は家の中に、道端に、そのままうち捨てられることが多くなった。行き倒れた人々が街にごろごろ転がる様子は、さながら地獄絵図のようだったろう。そして興味深いことに、患者は常にヒュームだけだったのである。例えばガルカで鎖死病にかかったものは一人もいなかった。

 このため、病気の原因について、さまざまな憶測が流れた(注1)。著名なものとして、ガルカ魔道士陰謀説、ゴブリン兵器説、クゥダフ鉱毒流出説などがある。後に禍根を残すような事件が、全国で続発した。とにかく致死性が高く、頼みの綱である修道士まで、次々病に倒れて死ぬ始末だった。人々は宗教ではなく、近代医学に回復方法を求めねばならなかった。

 世界中から錬金術師、薬師が集まってきていた。彼らは治療薬を研究していたが、規模もスポンサーもばらばらだったため、どうせなら力を合わせよう、という者が出てきた。それが契機になり、713年、錬金術ギルドが誕生した。そして彼らが、素晴らしい結果を生むのである。3年後、遂に特効薬が開発され、鎖死病は急速に沈静化していった。最初の死者から9年、恐ろしい伝染病騒動は、ようやく終結を迎えたのである。

 鎖死病はバストゥークに大きな被害を与えた。大量の病死者が出ることで、兵士の数が激減し、各個軍団とも定数を大幅に下回った。共和国は国力回復に努めねばならず、サンドリア侵攻は白紙に戻さざるを得なかったのである(注2)

◆冒険王アイアンハート

 鎖死病はバストゥークの歴史に大いに干渉したが、ヴァナ・ディールの運命もまた、ひとりの女の死で変わっていくのだった。港で働いていたグィンハム・アイアンハート青年が、母が死んだことを機に、商船に乗り込むようになったからである。23歳だった。

 グィンハム・アイアンハートはおそらく、過去現在を通じて、最も著名なバストゥーク人のひとりであろう。現代よりずっと旅が困難だった時代に、ヴァナ・ディールを踏破し、正確な測量地図を作り上げた。その業績と影響の大きさは計り知れない。死後120年が経過した今でも、彼の名を知らぬ冒険者はひとりとしていないほどだ。

 グィンハムは688年の生まれで、幼いころ戦争で父を失った。5人の兄姉とともに、母の女手ひとつで育てられた。商船に乗り込んで海を駆け、船乗りとしての経験を積んでいった。そして40代になり、タブナジアの東エラジア社にスカウトされる。彼は交易船をまかされ、船長として、外洋を飛び回る毎日を送った。マウラやカザムに飽き足らず、時には危険をおかし、近東へ足を伸ばして、イフラマド王国アトルガン皇国までも訪れたという。

 グィンハムは期日をよく守ったので、社の評判も上々だった。順風万帆の人生を送っていたのだが、747年、ミスラ海賊に襲撃されて運命が変わった。何故か秘密の航路がばれており、彼女たちに待ち伏せをくらったのである。船は遭難、彼自身も長期にわたって漂流し、なんとか命は拾ったものの、帰社後に査問会にかけられ、懲戒解雇とされた。積荷と乗組員をすべて失ったからである。59歳だった。

 グィンハムは、旅の安全の必要性を痛感していた。そのためには正確な地図がなければならぬ。彼は大胆にも、初老にして冒険家に転身した。その決意は、南グスタベルグにある碑文に読み取ることが出来る。以下がその全文である。

 私は、40年以上船乗りとして生きてきたが、未だ、この世界をおぼろげにしか理解していない。街や村で生活している者は、なおさらだろう。

 自分の身の周りのことだけに興味を持ち、生きていくのは、多くの場合、安全だし幸福だ。好奇心の強い者は、危険に陥りやすいからだ。

 しかし、私は遭難の末に、偶然拾った残りの人生を、この衰えぬ好奇心に使おうと思いたった。大それたことだが、このヴァナ・ディール世界の形を、知りたくなったのだ。

 私はその記念すべき第一歩の足跡を、愛する故郷バストゥークを一望できる丘に残すことにした。いつの日か、多くの人々に役立つ筈、との使命感とゆるぎなき決意を胸に秘めつつ、ここに記す。

 天晶748年 グィンアム・アイアンハート

 グィンハムは当初、手始めにクォン大陸踏破を目的とした。だがそれすらも、人々からは「雲をつかむようだ」と物笑いの種になった。現代よりもずっと、世界が広かった時代だった。だが彼は正確な調査を続け、未知のベールにつつまれた部分に、ひとつひとつ文明の光を当てていった。彼の測量技術は確かで、作られた地図は、順次船乗りや旅人たちの役に立った。その正確さが口コミで広まると、グィンハム・アイアンハートの名は、だんだんと影響力を持つようになった。バストゥークやサンドリアもそれに着目、一抹の危機感もあって、彼に資金と人材を援助するようになっていった(注3)

 グィンハムの足跡は、以下の通りである。様々な政治的事情に左右されてか(例えば、東西ロンフォール間の緊張)、必ずしも道程は安定していない。

748年 南グスタベルグ
749年 北グスタベルグ
750年 コンシュタット高地
751年 東ロンフォール
755年 ジャグナー森林
757年 ロランベリー耕地
759年 バタリア丘陵
761年 西ロンフォール
762年 バルクルム砂丘
763年 パシュハウ沼
764年 ラテーヌ高原

 グィンハムの旅について(石碑に書かれてあること以外で)わかっていることは2つある。彼はエルヴァーンの騎士の娘と恋に落ち、752年、娘エニッド・アイアンハートをもうけた。上の年表によると、東ロンフォールに入った直後である。ジャグナー森林の調査を終えるのに4年もかかっているので、この間東サンドリアに滞在したと考えるのが自然だろう。従って、彼の妻は東サンドリア人である可能性が高い。

 759年、グィンハムは、王国の視察官であるトルレザーペ・B・オルデールと出会い、意気投合する(注4)。冒険心旺盛の彼らは大変うまが合ったようだ。後にオルデールは、グィンハムに対抗意識を燃やし、ラテーヌ高原の鍾乳洞調査に着手。洞窟が人体の臓腑のかたちをしていることを突き止めた。同地は現在、オルデール鍾乳洞の名で知られている。
 
 オルデールは調査後、洞内の天然ガスを大量に吸いすぎて死亡。その4年前、グィンハムはラテーヌ高原の測量をすでに終えていた。彼はホラの岩が人工建造物である証拠を握り、北のバルドニアへと旅立った。翌年、同地でオークの襲撃にあい、壮絶な最期を遂げたとされる。時に77歳。オルデールは彼の死を惜しみ、バルドニアを訪れ、終生のライバルにして親友のために、以下の碑文を掘った墓を建てたという。

 「世界に安全をもたらした最も危険な男、ここに眠る」

◆エニッド・アイアンハート

 グィンハム・アイアンハートの娘エニッドは、正確にはサンドリア人である。本来ならサンドリア史で扱うべきであるが、彼女の業績は父親とは切り離せないので、この項目で続けて語ることにしよう。

 エニッド・アイアンハートは752年の生まれである。グィンハムとサンドリア騎士の娘だった。ヒュームとエルヴァーンのハーフであるが、ハーフとして有名な人物としては、他には例を見ない。

 幼少時は、騎士の娘として厳しい教育をされたようだ。長じて彼女は、父親がグィンハムであることを突き止め、遺品の収集に没頭。志を継ぐことを決意し、王国を出奔した。そしてわずか18歳で、ソロムグ原野の測量に取り掛かるのである。

770年 ソロムグ原野
774年 タロンギ大峡谷
777年 東サルタバルタ
778年 西サルタバルタ
778年 ブブリム半島
778年 メリファト山地

 彼女の場合、父親が著名な冒険家だったから、スポンサーの協力は得やすかったろう。父に似て、やはり道程は安定していない。ソロムグ原野の調査後、真っ先にタロンギ大峡谷に入る理由は、特には見当たらない(注5)。彼女はそのままウィンダスを訪れるが、東サルタバルタにて「手のような塔」を目撃。バルドニアから届いたグィンハム最後の手紙に、同じようなスケッチが同封されていた、と書いている。彼女は星の神子の協力を得て、ウィンダス周辺を調査(注6)。このとき謁見した星の神子はコフフだった。

 エニッドは後にブブリム半島、メリファト山地を調査、エルシモ島にまで足を伸ばしたようだ。公的には778年、ヴァナ・ディール全図が完成したとみなされている。ここには北東のリ・テロアは含まれていない。聖地だから敢えて避けた可能性もあるが、星の神子に会ったときのリベラルな態度からすると、敬虔すぎる教会派信者とも思われない。同地は立ち入りがしばらく禁じられていたので、中を調べる許可が下りなかったのかもしれない。サンドリア人の彼女には、強行調査は難しかったことだろう。

 エニッドの晩年については不明だが、没年が784年(32歳)と、わずか6年後なので、エルシモ島でそのまま亡くなった可能性もある。その業績は死後に認められて、サンドリア王家より爵位が授けられた。父ほどの経験には乏しかったエニッドだが、飛空挺時代が到来して、ミンダルシア方面の地図も正確さが喧伝されている。すなわち、確かに彼女はアイアンハートの娘であり、生まれつきの冒険家、技術者だったというわけだ。

注1
 最近の研究により、鎖死病の原因は、近東出身の虫、チゴーが媒介する不可視の毒素が原因であることがほぼ明らかになった。

注2
 グィンハム・アイアンハートは、北グスタベルグの碑文にて「これら(訳注:パルブロ鉱山開発の英雄を称える石碑)は、まだ共和国が貧困にあえいでいた頃、最初の砦、つまり現在の大工房が落成した日に、原因不明の爆発事故で命を落とした、多数の名も無きガルカ技術者たちの墓だったのだ」と説明している。
 初期開拓者のひとりであるオムランが、150年前の人物であることから、730年の大工房改築のことを指しているのがわかる。しかし、バストゥークの貧困時代に言及されているのはどういうわけか。文章からは共和国が黎明期にあるような印象を受けるが、このころは空前の好景気が続いており、国家として最盛期を迎えていた。鎖死病で社会が荒廃したのだとしても、当時グィンハムは成人しており、国が貧しいという認識は薄かったはずである。
 合理的に解釈する方法がないわけでもない。グィンハムが認識違いをしている、と考えるのだ。パルブロ鉱山の開発が困難を極め、10人の犠牲者を出したという話は、石碑がある以上事実として動かない。だがこの時期には、グィンハムはすでに商船に乗り込んでおり、南の海を飛び回っていた。大工房改装は730年、彼が船を下りるのは747年である。国内にいなかった関係上、故郷の事情に疎かったと考えても不思議はないだろう。
 おそらくグィンハムは、又聞きで事実を確認し、上のエピソードを記したのだろう。これは想像に過ぎないが、開発初期のグスゲン鉱山にも、同じような鉱夫英雄譚があり、子供時代に聞いた話を混同させてしまったのではないだろうか。

注3
 ヴァナ・ディール・トリビューン2のイラストには、グィンハム・アイアンハートに同行しているらしい、エルヴァーンの女性(少女?)が描かれている。年齢があわないので彼女はエニッドではない。もしかして彼女の母親だろうか。
http://www.playonline.com/ff11/guide/development/vt2/14/re14.html

注4
 オルデール卿の紹介文には「グィンハム卿と出会い(中略)意気投合」とある。どうやらグィンハムは爵位を授かっていたようである。だとすれば、東サンドリア滞在時に貰ったと考えねばならない。
 おそらくグィンハムには、男爵より下位、準男爵に該当する位が与えられていたのではないか。トルレザーペの例を見る限り、B(バルレ)の位は世襲となるようだが、エニッドが直接爵位を継いでいないので、男爵以上の位は考えづらい。もっとも、彼女は私生児として、グィンハムの娘であることは伏せられていたのかもしれない。エニッドが父の素性を知るのはある程度成長してからである。

注5
 エニッドはタロンギ大峡谷で、熱病にかかり死にかけたが、サボテンのおかげで一命をとりとめている。碑文には「その間、私は命の恩人達に、名前をつけました。兄弟喧嘩の最中に熱波で絶命した、古くて大きな恩人ギルボ・マッジ・ナビルに感謝をこめて」と書いてある。これが何を意味しているかは今もって不明だが、石碑のある洞窟の前に、三体の古竜の骨が転がっているので、彼らの名前ではないか、という説がある。

注6
 西サルタバルタの碑文の中で、「神子と呼ばれるアルタナ様の生まれ変わりが、大きな樹の中に住んでいらっしゃる」と書いているが、正確にはこれは誤りで、天の塔はれっきとした石造建造物である。ただし360年、星の大樹に飲み込まれ、以来ほぼ一体化してしまっている。


(06.09.24)
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