ジュノ史(2)――クリスタル戦争とアルタナ連合軍
◆ジュノの成立

 さかのぼって855年――闇の王の噂が広がり出すころ――ある兄弟が、ジュノの漁船により助けられた。彼らは遭難し、波間に漂っていたという。それぞれ名をカムラナート、エルドナーシュといった。

 本人たちの語るところによれば、彼らは、深山に住まう賢者の弟子であり、師匠の死とともに下山、ウィンダス連邦を目指していたところ、船の沈没にあったという。彼らはジュノに定住することになったが、当時の町は活気があり、一攫千金を狙う若者たちが多数流れ込んで来ていたため、とりたてて兄弟が目立つことはなかった(注1)

 やがてカムラナートは、通りで奇妙な技術を披露し始めた。今日でいうクリスタル合成術だが、その一風かわった、だが実用的なやり方は、人々の関心を強く引いた。おそらく深山の師匠に習ったものだろう。彼は惜しげもなく技術を人に教えたため、たちまち人望を集め、リーダー的な存在となっていった。翌年には早くもジュノ代表に選任される。合成術は安価で良質な品の製造を可能にし、莫大な富が、洪水のようになって漁村に流れ込んだのだった。

 だが代表となった彼は、人々を落胆させた。クリスタル合成技術を三国に無償で提供する、と発表したのである。人々は大公邸宅があったル・ルデの庭に押しかけ、カムラナートを詰問した(注2)。自分たちの専売特許を譲り渡してしまえば、ジュノの存在価値が損なわれてしまうではないか、というのが、彼らの言い分だった。

 だがカムラナートは、技術提供こそがジュノを保証することに繋がる、と説き、その場で居住塔の一大計画を披露して、人々をけむに巻いた。面積の狭いジュノは、深刻な住居問題を抱えていたのである。カムラナートは、ヘブンズブリッジ計画を見直し、ガルカ職人が建てた橋桁の上に、整備された高層都市を建設することを決めた。その設計は彼ら兄弟がすべて行い、工事費用にも私財が投じられた。腕の良い職人が集まり、彼らが国民となっていく、それが好循環となって、ジュノをさらに発展させていったのである。

 859年3月、三国の共同承認により、カムラナートは大公に就任した(注3)。この時点で経済力は三国を凌駕していたといわれる。実際には三国が危機感を感じ、共同承認することでカムラナートを牽制した、というのが事実のようだ。だがいずれにせよ、バストゥーク以来365年ぶりに国家が誕生した。以後20年あまりの間に、ジュノは急成長を遂げ、ヴァナ・ディールの盟主の座にまで駆け上がるのである。

◆アルタナ連合軍の結成

 輝かしいジュノの成立と、闇の王軍の蜂起は、ほとんど同時期であった。真っ先に動いたのはバストゥークである。大統領プリーンは、闇の王を非難する声明を発表、非常事態宣言を出すとともに、軍制を戦時に移行させた。一方ウィンダスの出足は遅く、元老院は宣戦布告を留保している。タルタルの消極的な姿勢もあろうが、クォン大陸の出来事であったため、早急な決断はためらわれたのだろうと思われる。

 862年5月、オーク軍が早くも王都に襲来した。王立騎士団は、これを激戦の末に破った。翌月、バストゥークにサハギンが多数潜り込み、港の破壊工作を断行。いち早く第3共和国軍団の出足をくじいた(注4)。ようやくウィンダスも重い腰を上げ、ミスラ海兵隊を急募、ミスラ傭兵団として再編成している。その直後、ヤグード軍が聖都襲来。かろうじて撃退したものの、甚大な被害をこうむることとなった。

 ことここに到っても、人類軍は各国ばらばらの抵抗を続けるだけだった。セルビナが完全中立を(勝手に)宣言し、共和国軍に包囲された事件はその好例である(セルビナ騒動、862年7月)。足並みが揃わぬことに危機感を覚えたカムラナートは、股肱の臣ナグモラーダを各国へ派遣。共同戦線を張ることを提案した。862年8月、ジュノで会議が開かれた。参加者は大公カムラナート、大公弟エルドナーシュ、サンドリア王デスティン、大統領プリーン、星の神子(注5)。世に名高いル・ルデ会談である。

 会談上でカムラナートは、独自に戦っていた各国軍の指揮系統を統合し、連合軍を編制することを提案。これが承認されると、アルタナ連合軍の名を冠し、闇の王軍の本格的な撃退の手筈を整えた。その最たるものが、ジュノ攻防戦の一大計画である。

◆広がる戦火

 四ヶ国共同で闇の王軍と対決する、そう決議がなされたのはいいが、相変わらず各国においては、獣人軍が首都をおびやかしていた。

 闇の王が放ったトンベリの刺客が、首脳陣の命を狙い始めていた。862年10月、バストゥーク軍務大臣ベルナーが刺殺された。プリーンとの会談を終えた直後、大工房内での出来事である。当初は怨恨殺人が濃厚と言われたが、サンドリアの情報により、にわかにトンベリ犯人説が浮上した。サンドリアでは大戦前より、主戦派の騎士が何人も殺されており、ほぼ同時期に神殿騎士団長ムシャンが殺害されたばかりだった。のち、共和国でも要人暗殺が相次ぎ、プリーン大統領自身の命も狙われるのだった(幸いこれは未遂に終わった)。

 ウィンダスでは、ヤグード軍の猛攻が始まっていた。連邦のカルゴナルゴ砦は、聖都防衛の要であったのだが、耐魔武装した特殊部隊にこれを包囲させ、無力化。魔法防衛機構の盲点をついて聖都に侵入、壊滅的な打撃を与えた。ウィンダスは混乱し、あわや陥落という事態にまで陥った。そのとき隠遁していた目の院院長カラハ・バルハが現れ、禁断の召喚魔法を使用。大いなる獣を呼び出してヤグード軍を撃退したが、自身は力尽きて帰らぬ人となった(862年11月)。これにより彼は、ウィンダス史に残る英雄として、戦後も人々の尊敬を勝ち得ることとなる。

 カルゴナルゴ砦は、遠路はるばる訪れたサンドリア軍の援護によって守られた。タルタルは歴史的に、エルヴァーンをいけすかない奴として嫌ってきたが、この事件により関係が水に流され、よい連携を生むようになった。連合軍が機能してきたひとつの証明でもあったようだ。同年、多国籍精鋭部隊であるハイドラ戦隊が結成された。スペシャリストが6人一組となり「パーティ」を結成、潜伏工作を行うという方式は、後の冒険者たちに継承された。彼らには特注の武器、特注の防具が与えられ、ズヴァール城で一大決戦を行うはずであったが、なぜかその直前に忽然と姿を消すこととなる。

 カムラナートの工作によって、闇の王軍はジュノ周辺に集結しつつあった。王立騎士団第一連隊は、ソロムグ原野に駐留する獣人たちを叩こうと、獣人軍の基地内まで地下道を掘りぬいていった。奇襲は成功し、敵を一時大混乱におとしめるのだが、やがて秘密の入り口が発見されると、獣人軍の逆襲を受け、全員が基地内で討死を遂げた。現在のガルレージュ要塞がそれであり、遺跡には当時の痕跡が今も随所に残っている。

◆ジュノ攻防戦

 クリスタル戦争のうち、前半の山場がジュノ攻防戦である。カムラナートの策略で誘導された獣人軍は、ここに主戦力を投入。連合軍がこれを返り討ちにしたことで、大きく戦の流れが変わるのである。

 戦いは熾烈を極めたという。カムラナート自ら陣頭指揮を取ったが、敵の巨人兵の投げた岩が、ジュノの主塔を直撃。ル・ルデの屋敷や庭もろとも破壊されてしまった。巨人の英雄ミマスには、素手で防御壁に穴を開けられるなど、あわや陥落寸前までいっている。だが彼らは持ちこたえ、徐々に優勢に転じ始めた。年が明けて863年、遂に獣人軍は撤退を始め、連合軍は紙一重の勝利をもぎ取った。彼らは一命を拾ったのだが、油断はならなかった――獣人たちが、新たな獲物を求めて西行していったからだ。
 
 西岸の半島、美しい景勝の国――タブナジアへと。

注1
 当時はヘブンズブリッジ建設中であり、前倒しの好景気が到来していたのだと思われる。

注2
 現在のル・ルデの庭は、戦後に建て直されており、当時のものとは異なる。ただしこの時点で、すでに橋の上に建設されてはいた。

注3
 タブナジアが連名でない理由は不明。もっともサンドリア側が、カムラナートに国家元首としての地位を認めながら、「大公」という爵位に牽制の含みを持たせていたのだとすると、下位である侯爵が参加してないのは当然ではある。

注4
 第3共和国軍団(海軍)軍団長は、『ギヌヴァの戦術指南』を書いたインビンシブル・シールド(738〜)が名高い。同書は、彼が大戦で負傷し、予備役となった時期に書かれたものである。戦後、東方の視察を経て復職、集団競技コンクリフトの復活に尽力した。

注5
 年表によれば、ウィンダスに対してはカムラナートが、サンドリア、バストゥークに関しては、エルドナーシュが呼びかけたことになっている。おそらくナグモラーダは説得の使節として派遣され、正式な要請状は大公兄弟の名で書かれたものだろう。
 なお、タブナジア侯
アルテドールが不参加である理由は不明。

(06.11.02)
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