サンドリア史(4)――【旅王】と【狩王】

■ポイント■
・護国の女王、【旅王】マレリーヌ
・【狩王】ドルミリックと武芸文化
・651年、宰相ロモビアの暗殺

◆【旅王】マレリーヌ

 アシュファーグは風雲児だったが、25歳の若さで死んだ。彼は逝去の早さでも問題を残した。サンドリア王家に後継者問題が起こり、有力諸侯のみにくい対立が表面化した。あわや内乱か、というときに登場したのが【旅王】マレリーヌである。彼女はあらゆる面で先王と対照的だったが、こと個性的という点では決してひけを取らなかった。

 マレリーヌは先々王の皇太子の娘だった。実の父と母が粛清にあったとき、マレリーヌはまだ乳飲み子だった。それをあわれに思った宮廷料理人が、こっそり彼女を引き取り、自分の子として育てた。後継者問題で王家が揺れているとき、彼女はまだ10歳だったが、その申し分ない血統が明かされると、即座に王座に迎えられた。568年のことである。

 ところが、即位したらしたで、別の問題が起こった。マレリーヌの後見役を巡る争いが起きたのである。彼女はこうした政争に、すっかり嫌気がさしてしまった。そこで一計を案じ、16歳の春、大陸視察旅行という名目で王都を脱出した。マレリーヌは二度と故郷に帰らず、旅先から王令を発して政治を行った。【旅王】といういささか風変わりな呼び名は、この事実に由来している(注1)

 ところでマレリーヌは、相当に変わり者だったようだ。少なくとも保守的な、黙って家庭を守る「賢母」というタイプではなかった。580年、マレリーヌはタブナジアを訪れ、侯子のフィレディナンと電撃結婚、王国を騒がせた。彼女はふらふらと旅を続けた。それは足かけ11年におよび、586年、アシャク山脈で消息を絶った。一行の捜索は2年に渡って続けられたが、遂に死体は見つからなかった。彼女は人生の半分以上をチョコボの背中で過ごし、30歳の若さで不帰の客となった。

 歴代の王の中で、マレリーヌはあまり人気がある方とはいえない。王都には数年しかいなかったし、行動がいささか突飛すぎたからだろう。だが近年、彼女の功績が見直されてきている。後の【龍王】ランペールが、辺境視察に出かけたとき、マレリーヌが施した防壁を見て詠嘆したといわれる。

「【旅王】がおらねば、わが国は百年前とうに滅んでいたろう」

 第10代サンドリア王は、「護国の女王」という名でも知られる。彼女は攻めのアシュファーグの後を継ぎ、着実に国防に備える政策で、王国500年の歴史に大きく貢献した。

◆【狩王】ドルミリック

 マレリーヌの捜索が打ち切られた年、すなわち588年に、第11代【狩王】ドルミリックが即位した。彼の功績は二つ名の通り、騎士の武芸面に大きい。

 604年、【狩王】は東ロンフォールを王立禁猟地に制定した。勇壮で知られる狩猟大会が秋に行われるが、751年、大会を見学したグィンハム・アイアンハートは、「儀礼的で退屈」と感想を漏らし、大羊放牧による生態系の変化を危惧している。

 614年、西方の使節団と謁見。12年後、肝入りで国際剣闘技大会を主催。優勝者は王立大騎士シルヴェリフだった。630年、ロンフォールの森で、団体競技バリスタを開催。これは久しく忘れられていたが、近年冒険者に見直され、一種のスポーツとして普及しつつある。

 ところで、サンドリア紅茶を定着させたのもドルミリックである。新しもの好きの【狩王】が頻繁にお茶会を開いたため、貴族の間で茶の需要が高まり、ウィンダス茶葉の値段が急速に高騰した。しかしタブナジア商人が、南方で茶葉の栽培を開始すると、ウィンダス茶は暴落、倒産する茶園まで出てきた。王の身勝手に振り回されたタルタルたちは、王室献上用だった高級茶葉を、そっくりモロロ川に投げ込んでしまった。川の水は三日三晩真っ赤に染まったという。

 これを伝え聞いた【狩王】は、いたく反省し、ウィンダス緑茶を高級品として、サンドリア紅茶の上にランクさせた。モロロ川はウィンダス港を流れているが、現在ではこの名で呼ぶ者は少なく、もっぱら紅茶川という俗称で知られている(紅茶川事件)。

◆高まる経済不安


 【狩王】は641年に逝去するが、王室の財政は逼迫したものとなっていた。644年、時の宰相ロモビアは、経済建て直しに取りかかる。彼は国教会の領地を削減するなど、聖域なき改革を断行したが、3年後に何者かに暗殺された。経済の悪化には、うち続くオークとの戦闘が一因としてある。663年、オークの大軍がノルバレンに侵入。辺境大騎士のファレデミオン卿がこれを撃退し、凱旋門に像を刻まれる栄誉を得たが、こういう「明るいニュース」の一方で、王国全土が疲弊しているのは明らかだった。

 対照的にバストゥークは、日の出の勢いにあった。パルブロ鉱山のミスリル産出量が最盛期にあり、かつてない隆盛を誇っていた。王国諸侯の中には、黄金銃士隊を迎え入れて、自治領の採掘権を売却、利益を得る者まで現れていた。王立騎士のモラルは、そこまで低下していたのである。

 665年、ファレデミオン卿は、希代の英雄として凱旋門に像を刻まれた。4箇所にある騎士の像がそれか。

 このような状況下で即位したのが、【狼王】ルジーグである。彼はアシュファーグを崇拝しており、自ら戦王の再来と認じていた。両国の対立はますます進み、いよいよ人類間最大の戦争、第二次コンシュタット大戦へと流れ込むのである。

注1
 マレリーヌがまだ王都にいる572年、王立騎士団がジュノ海峡を渡り、ウィンダスの砦を襲撃する事件が起こっている。これは戦闘魔導団に撃退されたが、彼らの意図が何だったかは確認されていない。


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