サンドリア史(6)――オルデール男爵の冒険
■ポイント■
・英雄ヴィジャルタール・カフュー
・トルレザーペ・B・オルデール
・東西サンドリア問題

◆フェレナンの反逆

 第二次コンシュタット大戦で、一敗地にまみれたルジーグだったが、王都への追撃は許さなかった。残った神殿騎士や、在郷騎士たちをかき集め、何とか敵軍をロンフォールで撃退、国土を防衛したのである。その後、彼は2年をかけて、バストゥークへの再度侵攻を計画。王立騎士団を再編成したものの、サンドリアを揺るがす大事件が彼の足をすくった。693年、フェレナン公爵の乱である。

 ラテーヌへ出撃した王の間隙を突き、【狼王】の弟のフェレナン公爵が、王都を占領してしまったのだ。驚いたのはルジーグである。2年前にも、サンドリアにオーク迫るという凶報を聞いたのだが、当時のものは共和国軍の流言だった。しかるに今度は、まぎれもない事実である。【狼王】が「腰抜け」呼ばわりした弟の真意は、いったい何だったのだろうか。

 フェレナン公はもともと、教会の信任がとてもあつく、この反乱の主力も神殿騎士団であった。彼はルジーグに対し、バストゥークとの講和政策を進めるよう勧告した。もしかしたらフェレナンは、独断専行のルジーグを嫌う反対勢力に、傀儡(くぐつ)としてかり出された可能性もある。アシュファーグを神格視するルジーグが、【戦王】と同じあやまち――諸侯や商人を敵に回す――を犯していても不思議ではない。何しろ商人たちは、戦争中も取引をやめようとはしなかったのである。

 いずれにせよ、ルジーグは弟の申し出を受諾しなければならなかった――王都を抑えられていては、どうすることもできない! そこで彼は、王室騎士団赤鹿隊のヴィジャルタール・カフューに、王位禅譲のしるしとして、王錫を持って行かせることにしたのである。

◆勇者ヴィジャルタール・カフュー

 サンドリア正史に触れられることは少ないが、ヴィジャルタール・カフューこそは、王国史随一の勇者として、民間の人口に膾炙する存在である。父は第二次コンシュタット大戦で名誉の戦死を遂げたオルディナン・カフュー伯。傭兵騎士団を指揮したファマンタール・カフューは兄にあたる。

 彼は平和を愛する人物で、うち続く戦乱に終止符を打ちたいと考えていた。その彼にとって、禅譲の使者となるのは、まったく願ったり叶ったりだったに違いない。そのことをわかっていて、ルジーグが彼を選定したのかどうかは謎であるが、ヴィジャルタールは確かに――もしかしたら、【狼王】の思惑以上に――使者として重大な役割を果たしたのだった。 

 ルジーグから預かった王錫を、無事フェレナンに送り届けたヴィジャルタールは、王都を開放するよう公爵を説得した。民間には以下のような伝説が残っている。ヴィジャルタールがフェレナンを説いているさい、王錫の杖頭についている宝石に、王国と共和国が手を取り合う姿が映ったのだという。これを見たフェレナンが、王都開放を決意したのであると。つまり一般的には「公爵がヴィジャルタールの平和主義に感化された」とみなされているわけだ。

 いずれにせよ、フェレナンはヴィジャルタールの説得に応じ、
「反乱に加担した神殿騎士の罪を不問とすること」
「バストゥーク侵攻をあきらめ、休戦協定を締結すること」
 以上のふたつを条件として、ルジーグに投降することとなった。

 ボストーニュ監獄。
 701年の完成後も、増築に増築が繰り返され、迷路のような構造になっている。獄死したものの怨念が淀み、廃通路になった箇所も多い。ドラギーユ王家の暗部を象徴する場所。

◆二王朝時代の始まり


 ヴィジャルタールが、単に使者として働いただけなら、後世高い評価を得ることはなかったろう。彼の功績は、フェレナンの命を全力で守り抜いたことにある。彼は公爵をかばい、ルジーグ王が放った暗殺者と格闘した。そのとき瀕死の重傷を負い、ヴィジャルタールは死亡した。フェレナンはルジーグに引き渡されたわけだが、公に処刑されることはなく、投獄されるに留まった。当時、王家の血は流してはならぬ、という決まりがあったからだ。【祈望王】の教訓から来たものなのだろうか。

 フェレナン公爵の乱の翌年、ドラギーユ城地下で監獄が作られ始めた。悪名高いボストーニュ監獄である。フェレナンの収容を前提としていたと思われるが、彼がここに入ることはなかった。696年に脱獄し、西ロンフォールへ逃亡した。そして702年、王を僭称して、西サンドリアを建国する。二王朝時代の始まりである。

 この王国の内乱は、805年、【龍王】ランペールが東西サンドリアを再統一するまで続く。一般的に、二王朝時代は暗黒の歴史とみなされている。その一因となったヴィジャルタールの業績が評価されているのは、ランペール、現国王デスティンを生んだ血統が、フェレナン公の方に始まっているというのが大きい。彼がいなければ、現在のサンドリアは存在していなかったのである。

◆冒険王オルデール

 とは言うものの、確かに二王朝時代は、サンドリアの国際競争力が衰退した、実りの少ない時期であった(注1)。見るべき事件もほとんどない。しかし、後世に大きな影響を及ぼした人物が活躍している。バストゥークのグィンハム・アイアンハートに並ぶ「冒険者の父」、トルレザーペ・B・オルデール男爵である。

 トルレザーペ・B・オルデール(以下オルデール)は、733年、裕福な騎士の家に生まれた。少年時代は問題児として知られた。士官学校時代、校庭で自作の大砲をぶっ放して退学になったり、珍獣を見物したいがため、教会の式典を抜け出し、異端審問にかけられたりした。彼のそういう側面は、旺盛な好奇心と知識欲から来ている。確かに常道を逸していたが、裏を返せば、それだけ行動力に富んでいるということだし、生きた知識を蓄えることにも熱心だった。

 755年、時の王にその博識が買われ、視察官に任命された。オルデールの活躍はここから始まる。彼は王の目となり、細かい地方探索を行って、情報を都に送り続けた。わずか数年で「サンドリアにオルデールあり」と名が知られるようになり、男爵の位が与えられた。そして、決定的な事件が起こった。759年、バストゥークの冒険家グィンハム・アイアンハートと話し、互いに意気投合したのである。

 ヒュームとエルヴァーン、バストゥークとサンドリア、種族と国は違えど、彼らは同じ血を持った同志、兄弟だったに違いない。オルデールは刺激を受け、768年、当時「入ると狂死する」と恐れられた、ラテーヌ高原の大洞窟の調査を始めた。彼は噂を恐れず、迷信の闇に科学の光を当て、完璧な地図を作り出した。結果、洞窟全体がいたるところに繋がっており、人体の臓器のような配置をしていることが判明した。彼の地図は現在でも使用されており、多くの冒険者の役に立っている。

 だが、調査の代償は大きかった。オルデールは洞窟から出てくると、たちまち病に倒れ、再び起き上がることはなかった。享年35歳。死因は、洞内の天然ガスを大量に吸い込んだためと言われている。彼の死後、その業績が改めて称えられ、洞窟はオルデール鍾乳洞と呼ばれるようになった。人体洞という俗称もあるが、ほとんどの冒険者は、自分たちの父である偉大な人物の名で、この洞窟のことを知っている(注2)

◆東西サンドリア問題

 サンドリアの歴史を研究する者にとって、頭の痛い問題がひとつある。東西分裂時代の情報がほとんど明かされていないことだ。例えば、オルデールがどちらの生まれだったのか、彼を視察官に命じた王が誰だったのか、現行の資料からではよくわからない。

 しかし、この時代には貴重な資料がある。冒険家グィンハム・アイアンハートの碑文だ。実は、彼の行動には奇妙な部分がある。判明している足跡を追ってみよう。
748年 南グスタベルグ
749年 北グスタベルグ
750年 コンシュタット高地
751年 東ロンフォール
755年 ジャグナー森林
757年 ロランベリー耕地
759年 バタリア丘陵
761年 西ロンフォール
762年 バルクルム砂丘
763年 パシュハウ沼
764年 ラテーヌ高原

 見ての通り、グィンハムの経路は安定していない。東ロンフォールまでは順調に北上していたが、突如引き返し、ラテーヌ高原を通り越して、ジャグナー森林の調査を始める。ジュノ海峡に向かって東進後、唐突に西ロンフォールに戻る。次に、またもラテーヌを回避して南下。バルクルム砂丘とパシュハウ沼を調べたのち、ようやくラテーヌ高原の地図を作り、北のバルドニアに向かい、その地で死亡するのである。

 グィンハムがオルデールと出会うのは759年、バタリア丘陵調査の年である。必ずしも現地で会ったとは言い切れない。年表を見れば明らかなように、単にエリアを通過するだけなら、ほとんど時間を必要としていない。しかも、バタリアは狭い上に開けており、他の場所より調査はしやすかっただろう。その間にグィンハムが移動した可能性もある。二人の出会いが、オルデールの任務先だったか、王国内だったか、それすらもわからない以上、すべては想像の域を出ない。

 ひとつだけ言えそうなのは、東西ロンフォールの調査年が違うのは、内戦の影響だろうということである。グィンハムは東ロンフォールにおいて、王族の狩猟大会を見学しているが、詳しく西を調べるのは10年も後である。いかに有名な冒険家とはいえ、緊張の続く両エリアをまたぐのは難しかったに違いない(注3)

 グィンハムの次の調査は755年。再開に4年もかかっている。彼は騎士の娘と恋に落ち、娘エニッドを設けた。エニッドは752年の生まれであり、つじつまが合う。彼はしばらく東サンドリアに滞在し、ジャグナーの調査にとりかかったのだ。そのブランクが4年の差となって表れたのだろう。

 だが、これをもって「オルデール=東サンドリア人」とは言えないのが難しいところである。仮に「オルデール=西サンドリア人」だとしても、彼のように奔放な人物なら、個人的な付き合いを躊躇することはなかったろう(サンドリア人にとっては、東西内戦の緊張よりも、むしろバストゥークとの遺恨の方が深いのである)。このように、オルデールの所属に関しては、確実なことは言えそうにない。続く資料を待ちたい。

注1
 705年、タブナジア侯爵フェレネスは、東西サンドリアに対して中立宣言を行い、事態を静観する姿勢を明らかにした。


注2
 オルデールの残した地図には、大規模な金脈の位置が書き込まれていた。遺族がそれを発見し、オルデール家は有数の資産家となった。


注3
 西ロンフォールの石碑には「この地を10年ぶりに訪れた」と記述されている。これがエリアを指しているのか、ロンフォールの森を指しているのかは不明。751年に足を踏み入れたことはあるにせよ、西ロンフォールの詳しい調査は761年に行われた。


(06.02.15)
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