バストゥーク史(8)――終戦から現在へ

■ポイント■
・ジュノ攻防戦とザルカバード会戦
・飛空挺登場、流通革命
・コンクエスト政策により冒険者の時代へ

◆ジュノ攻防戦

 862年11月、多国籍教導部隊、ハイドラ戦隊が編成された。実際にはサンドリア騎士が主体だったようだが、各国各分野のエキスパートを集め、6人単位で組み合わせるやり方は、大きく効力を発揮し、後の冒険者のパーティシステムに受け継がれた。ただし謎が多く、指揮系統や正確な人数についてはいまだ不明である。

 862年暮れから翌年春にかけては、激戦が続く時期であった。ウィンダスでは、ヤグードを主とする獣人軍が、二度に渡って聖都を襲い、カラハ・バルハの召喚魔法でかろうじて撃退した。サンドリアはオークを打ち破った後、遠路はるばるウィンダスの援軍に駆けつけた。王立騎士団はソロムグ原野にて、獣人基地まで地下道を掘り抜き、奇襲作戦を成功させている。だがその後形勢逆転、立て直すことの出来ないまま、第一中隊全員が壮絶な討死を遂げたという。現在地下道はガルレージュ要塞という名で知られている。

 カムラナートの策略により、闇の王軍の主力はジュノ周辺に集まりつつあった。ジュノ攻防戦は熾烈を極めたが、これにかろうじて辛勝したことで、人類軍が主導権を握り始める。863年1月、獣人たちは撤退を始め、主力をクォン大陸西岸、タブナジア侯国へ向け始めた。結果、タブナジア滅亡という大きな犠牲を払うわけだが、バストゥークには大きな問題が待っていた。クォン大陸南部にあるゼプウェル島から、蟻獣人アンティカ軍が上陸を始めたのだ。

 幸いアンティカの参戦が遅かったため、本格的な正面衝突は避けられた。彼らの無慈悲な行軍に人間指導者は震えあがり、「もしアンティカが本腰を入れていたら、ヴァナ・ディール全土は落ちてしまっただろう」と噂された。

◆ザルカバード会戦

 863年3月、タブナジアが陥落。だがその間に、連合軍は敵の本拠地、ズヴァール城に迫りつつあった。獣人軍は城の手前の雪原で迎撃。クリスタル戦争の趨勢を占う、ザルカバード会戦が繰り広げられた。

 戦いは3ヶ月にもおよび、連合軍が辛勝したのだが、この結果は勝敗差以上の効果を及ぼした。闇の王軍は総崩れとなり、勢いは一気に連合軍に傾いた。7月にはズヴァール城を完全包囲。さすがに陥落にはてこずった(注1)。だが同月、人類軍の放った刺客が、ズヴァール城の王の間に突撃。闇の王を遂に討ちとり、決定的な勝利をもぎ取ることに成功した。

 このメンバーには、ミスリル銃士のフォルカー(ヒューム)、ザイド(ガルカ)らが含まれている。とどめを差したのは、ウルリッヒの甥でもあるフォルカーだった(注2)。闇の王の死に伴い、デーモン将校が多数逃亡したこともあって、獣人軍はたちまち瓦解。オークのように踏みとどまって戦う勢力もいたが、多くは壊滅的な打撃を受けている。バストゥークの天敵クゥダフに関しては、もともと闇の王を信用してないきらいがあり、ズヴァール城駐留隊にもザ・ダの息がかかった者が多かった。彼らは落城後、わずかな敗残兵をまとめ、ベドーまで落ち延びたという。

 864年2月、頑強に抵抗を続けていたオーク軍が、遂にクォン大陸から撤退開始。翌月、四ヶ国の代表は再びル・ルデで会合を持ち、共同終結宣言を発表する。これによってクリスタル戦争は一応の決着を見た。終戦直後、首府の防衛を果たしたにも関わらず、プリーンが教育問題で失脚するのは、先に述べた通りである。

◆戦後

 865年、ジュノで戦後処理会議が開かれた。ジュノ大公弟のエルドナーシュは、四国間の関係を継続することを提案。互いに領事館を設置することで合意した。各国領事館は、大工房屋上、大統領邸のすぐ近くに置かれている。

 現在、三国の中でもバストゥークは、最も元気のある国と認識されている。自国のヒューム技師が作り出す数々の発明は、共和国に大きな利益をもたらした。その代表格がシドで、前述の機船のほか、ジュノ大公の協力を受け、飛空挺1号機の設計まで担当している(注3)。飛空挺は戦争兵器として建造されたが、民間利用が画策され、空飛ぶ貨物船として実用化がスタート。875年、世界各国に先駆け、バストゥーク-ジュノ間を結ぶ定期航路が開拓された。

 855年、シドが開発した機船。内燃機関を使用した画期的なシステムは、シドが20歳のときに作った機艇を改良したもの。他国の帆船と競争後、機船の方が速いことがわかると、857年、セルビナ-マウラ間の定期便船として、正式に採用された。

 このような取り組みは、確かにバストゥークを富ませはしたが、ジュノの牙城を崩すには至らなかった。868年、四国協商が活発化したことを受け、貨幣がジュノのギルに統一される(通貨統合)。これはサンドリア、ウィンダスも同様であり、バストゥークは330年続いたバインを廃止することとなった。

◆コンクエスト政策

 867年、パルブロ鉱山が大規模な落盤を起こす(この年、シドが火薬研究所所長を辞任)。2年後には、同山にクゥダフの神殿があることが明らかになった。もっとも、初期開発時すでに発見者がいるので、関係者によって事実が封印されていた可能性が高い(注4)

 翌年、パルブロはクゥダフ族の逆襲を受けた。ザ・ダは精強な兵団を本格投入、鉱夫や警備兵らを一掃している。これをパルブロの復讐と呼ぶ。つまり共和政府も、「赤き炎と血の日の報復である」という認識を強く持っているわけだ。

 これを機に、再びクゥダフ族は徐々に勢いを盛り返し、パルブロ山を前衛基地とした。現在にいたるまで同山は奪還できていない。時おり未熟な冒険者たちが腕試しに潜っていくが、返り討ちにあって追い出されるのがオチだという。

 877年ごろ、獣人被害が各地で活発化していた。オークは山村ダボイを襲い、これを要塞化。サンドリアの側にゲルスバ砦を再構築した。ヤグードも一時期すっかり弱っていたが、ウィンダスとの平和条約の隙を突き、再武装化に成功している。そこへこのパルブロの事件である。本来なら共和国が解決するべき問題だが、他国への猜疑心から、軍隊の本格的投入を行わなかった。この傾向は世界的に共通している。例えばサンドリアは、オークと戦っているが、国内の事情が軍の足を引っ張り、足並みが全くそろっていないのが実情である。

 世界的な厭戦気分の蔓延を受けて、ジュノ大公カムラナートは、883年コンクエスト政策を提唱した。世界をリージョンと呼ばれる地域に分け、各リージョンの治安に最も貢献した国が、その場所の統治権を(一定期間)得るというものである。ジュノが領土戦争に加わらないと自ら表明したことで、三国の協定は難なく進み、882年に就任したばかりである、リヒター“プレジデント”カルストが調印。大統領令により、正式にコンクエスト政策が公認された。

 コンクエスト政策は、もともと正規軍の派遣を促すものであったが、冒険者という自由層が増え始めると、三国は彼らをスカウトし、コンクエストのための戦いを肩代わりさせた。これにより本格的に冒険者時代が到来、現代(884年〜)に至るのである(注5)

 ツェールンは、872年に開発が始まった新しい鉱山。ミスリルは産出しないが、ダーク鋼の原料である黒鉄鉱が多数発見される。

注1
 ハイドラ部隊は、ズヴァール城の突撃前夜、何故かこつ然と姿を消した。

注2
 フォルカーは叔父の風評が悪いことを後ろめたく思っており、努力を続けてミスリル銃士隊隊長にまで上りつめた。

注3
 882年、ヒュームの錬金術師エドワーズが、サーメットを発見した。サーメットは古代ジラート文明の建造物に主に使われるが、実際に存在する耐熱材料である。

注4
 ベドーの魔晶石の記憶において、鉱山から出てきたバベンが、ラオグリムに神殿の存在について報告するシーンがある(キルトログ記その255参照)。パルブロの初期開拓者に関する逸話も、後に手が加えられ、いかにもヒュームの功績であるように偽造されたこともあり、この事実が政府によって伏せられ続けてきたとしても、驚くには当たらない。


注5
 コンクエスト導入の序盤、バストゥークはヒュームの冒険者を数多く抱え、人数の上で他国を大きくリードした。コンクエストでほぼ全土を制圧した実績もある。

(06.09.24)
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