サンドリア史(3)――バストゥーク、オークとの戦い

■ポイント■
・マイヤー盗賊団との戦い、勝利と敗北
・489年フェルン男爵の乱
・【戦王】アシュファーグの戦慄、オーク千人落とし

◆マイヤー盗賊団との戦い

 5世紀初頭、サンドリアはウィンダスと交戦状態にあったが、無視してはならないのが、鉱山労働者の存在である。彼らは鉄腕マイヤーというヒュームの男に率いられていた。マイヤーたちは469年、自分たちの安全確保のため、バストゥーク渓谷に避難所を築こうとしていた。王国側からしてみれば、彼らの行為は主権侵害にあたる。従って、マイヤーたちが自由労働者遊撃隊と名乗っているときも、サンドリア政府では、マイヤー盗賊団という僭称が用いられていた。

 王立騎士団による集落襲撃(463年)については前述したが、この事件があったことで、マイヤーたちは用心深くなっていた。彼らは自衛の意識を強めていた。避難所は、王国兵の襲撃に備えるため、砦としての機能が強化されつつあった。こうなると「労働者の集団」ではすまない。サンドリアは日増しに彼らに対する警戒を強めていった。
 そして、遂に緊張が弾けた。砦の完成を阻止するため、487年3月、王立騎士団の一隊が“盗賊団”討伐へと出発した。ところが彼らが、思いもかけぬ大敗北を喫してしまうのだ。渓谷の奥へ連れ込まれ、落石で退路を断たれ、崖上から石弓の一斉射撃を浴びせられた。騎士団の半数が死傷、捕虜になった者は100名を越えたというのに、“盗賊団”の死傷者は47名だった。ソロムグの壊走に劣らぬ、王国史上まれにみる大敗北である。

 一方マイヤーたちは、畏怖の対象であった王立騎士を撃退したことで、いやがおうにも士気を高めた。彼の名声はますます上がった。この流れを受けて、彼らは7年後、バストゥーク共和国を建国する。それはサンドリア王国にとって、ウィンダスに代わる、新たな敵の登場を意味していた――それも、彼らのクォン大陸の内部において。

◆足もとのゆらぎ――フェルン男爵の乱

 一方、立て続けの敗北が嘘であるかのように、王国の内政は安定していた。470年代、治安が回復したことを受けて、王都内では建設ラッシュが始まっていた。485年、建国祭が盛大に行われ、サンドリアの建国100周年が祝われた。王国の臣民は浮かれていた。そうした流れに水を差したのが、489年のギョルルミット・フェルン男爵の反逆――通称フェルンの乱である。


 木工ギルドは474年、建設ラッシュと武器製造に備えるため、木材の安定供給と、工費談合を目的として結成されたが、現在は、同業者互助機関としての性格を強くしている。

 フェルンは王妃(【吟王】フェリンジェリの妃だと思われる)と共謀し、王家転覆を企図したのだった。この反乱は2年後に鎮圧された。彼は神殿騎士団に降伏し、翌年の491年に刑死となる(注1)。サンドリアが内部の混乱に手を焼いているあいだ、バストゥーク砦は完成。494年、“盗賊団のかしら”マイヤーが初代大統領となり、ついにバストゥーク共和国が発足するのである。

 凱旋門と凱旋広場。490年、【吟王】フェリンジェリにより建立される。665年、辺境大騎士ファレデミオン卿の像が凱旋門に彫られた。
 ファノエ運河。ギルド桟橋から筏(バージ)で下ることが出来る。503年、【豪王】シャラムビールにより着工、彼の逝去の年(538年)に開通した。

◆【戦王】アシュファーグ

 6世紀の後半は、長い王国史の中でも、最も興味深い時期のひとつである。ここには印象的な3人の王が並ぶ。中でも【戦王】アシュファーグは、その強烈な生き方――そして、死に方――において、異彩を放っている。彼の人生を追ってみよう。

 アシュファーグ・R・ドラギーユは、542年、【農王】レスヴィエル2世の四男として生まれた。レスヴィエル2世は内政を重視していたが、彼の息子は火のような性格の持ち主で、若干16歳にして即位するとき、王位継承のライバルである異母兄弟を自ら殺してまわった。558年のことである。

 アシュファーグは第9代サンドリア王となったが、玉座におとなしく座っているような人物ではなかった。即位から2年後、精鋭騎士の一隊を引き連れ、ジュノ海峡を渡った。420年の再現である。彼はたちどころに、ウィンダスの4つの砦を攻め落とした。ランフォルと異なるのは、そのまま打ち捨てて帰ったことだ。アシュファーグは返す刀で北へ向かう。オーク族の一団が、クォン北岸に上陸したという知らせが届いていたからである(注2)

 アシュファーグがジュノ海峡を引き返したとき、周囲にはわずか数騎がいるばかりだった。彼はウルガラン山脈へ直行、現地の辺境騎士団に合流すると、オークたちに戦いをしかけた。アシュファーグは見事な采配をみせた。高低差の激しい地形を利用して、終始優位に戦いを進めたのである。侵攻してきたオーク軍は、徐々に彼らに押され、断崖の上へと後退した。ここでアシュファーグは、千人を越えるオーク兵を、次々と崖から追い落とした。この勝利をオーク千人落としと呼ぶ。王国戦史に鮮烈な印象を残す事件だが、アシュファーグにとってみれば、生涯33度に渡る戦の、たったひとつの戦い――たったひとつの勝利――に過ぎなかった。
 
 アシュファーグの次の標的は、バストゥーク共和国だった。千人落としから2年後、彼は王立騎士団を連れて、コンシュタット高地に出かけた。ここにあったヒュームの集落を襲撃、本格的な戦争が始まる。世に言う第一次コンシュタット会戦(563年)である。

 アシュファーグは石弓隊の抵抗にあい、進撃を阻止されたが、グスゲン鉱山を破壊して戻った。同鉱山は、稀少金属ミスリルを産出することで、共和国のふところを潤していたのだ。第一次の対戦は痛みわけに終わった。第二次は691年に行われる。このときサンドリア軍を率いたのは、アシュファーグを崇拝する【狼王】ルジーグであった(第二次コンシュタット会戦については後に詳述する)。

 564年、アシュファーグは盛大な凱旋式を開き、王都へ戻った。国民は熱狂して彼を迎えた。歴代サンドリア王の中でも、アシュファーグは戦績においてぬきん出ている。そのせいか、彼は兵士や騎士に絶大な人気があった。戦場で見事な采配を振るうばかりか、しばしば先陣を切って戦い、優れた戦士としての腕前を見せたものだ。稀にみる軍事の天才だったと言っていい。

 アシュファーグは、短い在位期間のあいだに、軍制改革にも着手している。565年のことである。彼は精鋭騎士を選抜し、近衛騎士隊として傍らに置いた。この伝統は現在も続いている。また、諸侯の動員兵力の義務化や、騎士階級の待遇改善などを推し進めた。結果、サンドリアの軍事力は強化された。このあと100年続く王国の軍事的優位は、彼の改革がもたらしたものである。【戦王】という二つ名は、敵・味方双方から使われたが、彼らは必ず畏怖を込めてその名を呼んだ。【興国の魔王】という俗称もある。

 アシュファーグほど敵の多い王は、国外・国内を問わず、他にはいなかっただろう。剛直で独断的なやり方は、現場の兵士たちに尊敬されたものの、諸侯たちにはすこぶる評判が悪かった。567年、彼はわずか25歳で逝去する。公的には戦傷が原因だという。しかし、彼の死亡当時には、「貴族の某が殺したのだ」という噂が、王都の中でまことしやかに噂されていた。ウィンダスのルンゴ・ナンゴを彷彿とさせる話である。
 
注1
 フェルン男爵が捕えられた490年は、王立騎士団結成の100周年に当たり、盛大なパレードが挙行された。


注2
 バストゥークの冒険家グィンハム・アイアンハートは、西ロンフォールの石碑の中で、以下のように述べている。
「この地を訪れたのは、実に10年ぶりだったが、はるか北方に住んでいた筈のオーク族の戦士をあちこちで目撃し、驚いた。(後略)」
 石碑の記録は761年となっている。従って、サンドリア周辺にオークが流れてきたのは、だいたい750〜760年ごろと考えられる。
 しかしながら、サンドリア王国とオーク帝国との大戦は、それより200年も前に行われていた。オーク族はこの後も、クォン大陸(ノルバレン)に上陸を試み、辺境大騎士ファレデミオンによって撃退されている(664年)。この2度の勝利が、王国からオークを遠ざけていたのだろう。グィンハムは、エルヴァーンがオークを軽視していることに警鐘を鳴らしているが、彼らのこのような態度が、過去の2度の戦果からきたのであっても不思議はない。


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